極私的 haiku 回想 第2回 歳時記

第1回はずいぶん前。記事のアップもそうだが、高校のときの話だから、めまいするくらいずいぶん前のこと。第2回はそのつぎの俳句体験というわけだが、一気に20年くらい飛ぶ。その間、幸いなことに俳句などというじじむさいものと一切の関わりを持たず、人並みに幸せだったり、人の数倍、馬鹿げて悲惨だったりで、時間は矢の如く過ぎた。おお、なんか、ありがちに臭みのある導入。

世の中、ひとり食べていくくらいは簡単そうにも思えるが、そうでもない。とはいえ、次の朝に目を覚ましたいなら、食べていくしかないわけ。って、もういいか、ぐちゃぐちゃした導入は。ともかく、そのころ私は「編集関係」という、なんだか説明のむずかしいシノギでご飯をなんとか食べていた。編集関係者なら誰もが知っているように、ここにもカーストがある。大出版社の大編集者から下請けの業者まで。私はもちろん最下層で、出版社やら広告制作会社(広告代理店の下請け)からの注文で、印刷物制作のためのなにかかにやの作業をやって、それでオカネをいただく。

これはすでに使ったネタかもしれんが、繰り返す。母親に仕事の内容を訊かれて、「本や雑誌の中身を作る仕事」と答えたら、「大変やなあ。あんた、そんなことできるんか? 紙切ったり糊で貼ったり」と嘆きのような慈愛のような言葉を返され、いや、実際、どこかの文筆業者が書いた少々問題の多い(あるいは使いようのない)原稿を「切ったり貼ったり」はするが、ハサミも糊もそんなには使わない。そんな説明をしたら、話がもっとややこしくなりそうなので、やめた。田舎で暮らす母は今でも不肖の息子が毎日どんなことをしているのか、よくわかっていない。「まあ、yukiさんがいるから、大丈夫やろ」と他人任せなことこのうえない。

話が逸れた。元に戻す。だいたいの仕事は発注元から「こんなん、やって」と連絡が来て、シノギの作業が始まる。そのときも「うちに歳時記があるんだけど、これ使って何かできないか」という電話がK談社がかかってきた。歳時記のデジタルデータがあり、それを加工する。リイシュー(再編集)なので、原材料費は安い。売れれば、出版社にとって美味しい。ところが、歳時記と言われてもピンと来ない。歳時記? なんじゃそれは? 2、3日して段ボールが届いて、開けてみたら、エラく豪華な作りの5巻本。俳句では季語というものを使う。その季語が並べてあって、どうたらこうたら説明してあるのが歳時記なのだ。知ってました?

企画書めいたものをファクスしたら、「じゃ、それやって」ということになり、仕事が始まったが、俳句かあ、なんかカンが効かないなあと10秒悩んだところで、この稼業の先輩の顔が浮かんだ。その少し前に広告関係の取材かなにかでご一緒したとき、電車の中で、その方はメモ帳を広げ、筆ペンみたいなぶっといサインペンでなにやらサラサラと書き留めておられた。おっ、俳句かあ、と、そのとき思った。それを思い出したのだ。

これこれ、こういうわけでと説明すると、手伝っていただけるという。おまけに、「デザイナーも要るなあ。あ、俳句やってるのがいるから」と、てきぱきと3人体制を作り上げてくれた。何度か打ち合わせて「歳時記のリイシューもの」の骨格が決まり、あとはちゃっちゃかちゃっちゃか作業を進めた。

ところが後半にさしかかり、厄介な作業が発生した(といっても当初から必要な作業だったのだが、担当編集が忘れていたのだ)。その歳時記は監修者は3名(物故)だが、解説原稿を書いた俳人はかなりの多数。そこに「再編集の書籍を出しまする」と挨拶状を送り、再掲の了解をとり、発刊後は「贈呈」を送る。そのためにはそれら俳人さんたちの住所を突き止めねばならない。

「俳句年鑑」とかその手のものを入手した。ところが、その住所録に載っていない人も多い。物故作家もいる。いや、そのまえに、物故か御存命か、資料ではすべてを突き止めきれない。そこでくだんの先輩が、「知り合いにそういうことに詳しい人がいるから聞いてみる」と作業を分担してくれた。物故作家は、その著作権後継者の氏名と住所を探る。結社(という言葉も知らなかったが)の連絡先に電話するなどして、あらかたは判明したが、それでもわからない作家がいる。「娘さんが結社を継いでおられましたが、それからどうなったか……たしか岡山に引っ越されたような……」。主宰の逝去で結社が立ち行かなくなり、そのうち自然消滅。今なら現実的な事象としてニュートラルに受けとめるが、その頃の私は俳句世界のひとかけらも知らない。電話で、物故作家の末裔を追い求めるあいだ、なんだかロマンチックな気分にもなった。

そんなこんなで、その書籍は出来上がった。そして本屋に並んだ。しかし、売れなかった。俳句をやらない私が案出して、俳句をやらない編集局長が決断した企画は、俳人のニーズに合致しなかったのだ。

しかしながら、縁は残った。手伝ってもらった稼業の先輩は、祐天寺大将。「俳句をやるデザイナーさん」は六番町先輩。いまもお世話になっている。そして、物故存命の知恵を授けてくれた「そういうことに詳しい人」が、これはあとで知ったのだが、仁さんだった。

その仕事が終わった頃だったか、祐天寺さんは私に言った。「歳時記つくったんだから、俳句もやってみたら? ちょっとおもしろいよ」。私はそれを聞いて、間髪置かずにお答えしたと憶えている。「え? 私が俳句? ご冗談でしょう!」

私が俳句を遊び始めるまでには、あとしばらくの時間が必要だった。って、ありがちな「次回に続く」。

あ、そうそう。K談社の担当編集が感心したように言っていた。「俳人って、礼儀正しいですねえ。贈呈送ったとたん、どんどん礼状が届くんです」
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by tenki00 | 2006-04-12 23:41
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