俳壇についての信治さんの記事が面白い。
http://uedas.blog38.fc2.com/blog-entry-42.html 評判記に端を発する「想像上の社会空間」としての「壇」という学究的把握を見いだした仕事は、俳人として上出来(失礼な言い方ですが、俳人全般をおちょくって、信治さんを誉めてます。為念)。 さて、俳壇についての信治さんの列挙は、前半は、見覚えがあり(特にギルド等。ただし「職業ギルド」としてはかなり情けないものではあるが、前にも指摘したので、もういいか)、後半は有意義な展開。特に… 「自己目的化」とか「相互監視」とか「教条化」とか「蛇の尻尾呑み」とか「定向進化」とか「よそとの交流のない村で血族結婚を繰り返し」とか、山ほど不健康なことが起こる契機がある …という箇所に、「俳壇」やら「壇」やらが生理的に大嫌いな私としては過剰に反応してしまう(不健康は好きなのに、ね)。だが、つまりは、生理の問題だと思う。理屈より前に、生理が忌避する。逆に生理的に、こういうものを好む人間は確かにいる。ここは生理で分かれるところだから、議論は生まれない。 さて、信治さんは、「不健康」な契機に敏感でありながら、せめて「評価の装置」としての「健全性」を問題にする。この場合の健全は、うまく動く、つまり機能するという意味だろう。評判記が出自のはずの「俳壇」の、その評価機能はどうなのよ?という話で、その結論は、暗示で終わる。「こわいおっちゃん? ていうのも、ださいんだよな。」 誰か特定の「人」が担保になるというのは、私には考えにくいが、「井の中の俳句」だから、それも可能なのかもしれない。担保は、市場でも、歴史が語りづくる理念でもないのかもしれない。 ※だが、それこそが、例えば「読者の反応」という文芸なら当然持っていていいはずの評価の核をもてない俳句の不幸にちがいない。 ところで、信治さんのこの記事は、俳壇をホリゾンタル(水平)に捉えるには充分な問題設定だが、補足としてヴァーティカル(垂直)に捉えてみたい。つまり「壇」というのは「積み重なったもの」ということだ。 この壇は下に行くほど広い。私は50万人くらいと踏んでいるが、まあ、よく「俳句人口100万人」とかそういうふうに言われる底辺の「俳壇」だ。俳句愛好者全員を「俳壇」と呼ぶのに抵抗がある人がいるかもしれないが、実は、俳句総合誌などはこの大きなパイを俳壇と考え、その求心力(そんなもの、もちろん架空だが)として、限定数の「俳句作家」を据えているフシがある。二重構造。また、桂信子があの有名な発言で「俳壇は多すぎる」と言ったのも、この50万だか100万人を対象としている。 つまり、俳壇は、脈絡によって、また人によって、広い裾野を持ったり、頂上付近だけだったりするわけだ。これがヴァーティカルな捉え方。当たり前といえば当たり前だが、言説の対象となる「壇」は一定でないということは、頭に置いておいていい。 そこで、「俳壇なんて、まったくもって、どうでもいい」人間にとっては、その裾野に数えられるのも迷惑な話で、「想像上の社会空間」は、想像を共にする人たちにとってだけ意味があると思いたいところだが、現実にはなかなかそういうわけにはいかない。 一方、この「想像上の社会空間」の存在が、現在ほど、「そのなかにいる人間にしか見えない」時代はないのかもしれない。たとえば、俳句世間の外の人にとっては、この「壇」の頂上さえもよく見えない。具体的にわかりやすく言えば、俳句に携わらない人に対しても存在感を示す作家(これが存外大事なのだと思う。井の中の文芸分野で終わらないためには)は、金子兜太以来、出現していない(兜太が俳人としてどうという評価ではない。社会的に見て、という意味ね)。 もちろん俳句という井戸の中でよく名前を知られた「作家」はたくさんいらっしゃる。田島さんなどは、「たくさんいすぎるから、外からよく見えない」と把握していらっしゃるようで、その考え方は、私には「作家の間引き論」のように映る。昭和の良き時代、ちょうど良い数の有名作家が居並んでいた、そのイメージなのだろう。「今はちょっと多すぎて、よくわからん。中途半端な作家は消えろよ」とも聞こえる。かなり過激で、すごく面白い。そして、いま「俳壇」というとき、田島さんの把握はしっくりこないこともない。俳壇とは、どうでもいいような作家が足の指まで使っても足りないくらいたくさんの数、「有名作家」の顔をしている場所のことのようなのだ。 信治さんの問題設定に帰れば、俳壇において「評価」が機能するかどうか。これについては、「機能して、どうなるものでもないだろう」とも思ってしまうが、そこのところはどなのだろう? まあ、これを言うと、あまりにも現実から離れてしまうか? いろいろとりとめなく書いたが、要するに、「俳壇」という、そう呼ぶだけで大笑い的に(いわゆる)ダサいものにも、クールに向き合う信治さんは、えらい。同時にクレバーだとも思う。今後の「俳壇論」を楽しみにしたい。
タイトル : 「俳壇」について(1)
天気さんの記事『「俳壇」の機能?』について。ハイクマシーンの上田さんの記事へのトラックバックなのですが、これ、なるほどと思わせます。4.「壇」とは、つまるところ「評価の装置」である。 なるほど。言われてみればそうだなぁ。勉強になります。で、一応、天気さんの記事に僕の名前があったみたいなので、ちょっとコメント。もちろん俳句という井戸の中でよく名前を知られた「作家」はたくさんいらっしゃる。田島さんなどは、「たくさんいすぎるから、外からよく見えない」と把握していらっしゃるようで、その考......more
タイトル : 俳壇(つづき)
「俳壇」について、一部でご好評を得たので、続けます。 1.「評判記」から「俳壇」なる仮想の空間が生まれた、という把握が可能なら、「俳壇」はジャーナリズムの作品であるとい...more 角川の『俳句』など、商業的俳句総合誌は異常なくらいに結社の広告が多いです。他の雑誌のように企業の一般広告がたんまりあって記事のほうがすくないのも考えものですが、このことからも推測できるように俳句総合誌はほとんどが俳句の“関係者”ですね。純粋な読者というのはあまりいない。その読者もたいていはどこかの結社や同人に属していると思います。 したがって財政的には結社の広告でもっているといっても過言ではないと思いますが、そうである以上そのお得意先の意向を無視はできないでしょう。放送禁止用語のように、はっきり明文化されているわけでも、あからさまな圧力があるわけでもないが(たぶん)、自主規制のような配慮は強く働くだろうと思いますし、当然営業増進的配慮もあるでしょう。俳壇というのは一面ではそういう配慮の別名でもあると思います。(続く) この状況を変えるには、誌面に大きな影響を与えるか左右するくらいに純粋購読者が増えるか(その雑誌を買いもしない外野があれこれ言ってもほとんど無意味です)、俳句作品に対する別の土俵での厳しい批評がふんだんになされるかしかないと考えます。 俳句関連のHPやブログはたくさんありますが、俳句の周辺のことは語っても、自分や相手の俳句そのものについての率直な批判はあまりないように感じていますがどうでしょうか? 大江さん、どうもです。 俳句総合誌は、私にとってはほとんど用無しの冊子ですが、何冊か買ったことがあります。また、あらためて記事にしたいと思っていますが、ひとつ。結社広告は財源ですが、広告料としての総額はそれほどでもないと見ています(結社の決算とかからの類推。わりあい安いんです)。俳句総合誌が成り立つ第一の要因は、原稿料(いわば誌面の原料費)全体の安さだと踏んでいます。 >俳句そのものについての率直な批判はあまりない これは実際そのようですね。ちょっと考えてみることはあります。 そうですか、原稿料が安すぎるのかもしれません。俳人で、原稿料で食べている人というのは聞いたことがありませんものね。だからすぐに結社を作って主宰になったり、大会や俳句賞の選者になったりするのでしょうか。 だれか匿名でけっこうですので、実際角川あたりから原稿料をいくらくらいいただいたことがあるか教えてくれませんかね。 はい、私も知りたいです(笑。俳人のランクやページによっても違うんでしょうが、知りたいですね、生臭いところを。 俳人爺さんと話す機会があって訊いてみました。だいぶ前のことかもしれませんが、1ページ(句稿)の原稿料は「5千円はくだらなかったような。でも、1万円は行かなかったような」とのことです。その爺さんの句が載るのは「俳句研究」とかが多かったような気がします。 手元にある『俳句研究』を今見ると1ページに6〜8句載っていますね。すると1句あたり1000円程度といったところ。埋め草のような句ならともかく精選した新作を1ページ分2ページ分そろえるのは相当たいへんなので、それを思えばこれは稿料としては安過ぎますね。「大作50句!」とかいってもせいぜい10万くらいでしょうか? これではとても作家専業は無理です。 乱暴な言い方かもしれませんが、「俳壇」についてはあんまり考えなくてもよろしいのではないでしょうか?どんな分野においても同じことがいえるような気がしますが、ある作品が時を超えて残っていくかどうかは、一定の時代の「権威」によってではなく長い時間が決めるものあるように思われます。俳句もいいものは残ります。そうでないものは残りません。だから俳句という形式そのものが第二芸術かどうかという次元のことではありません。たとえば今の時代に「俳壇」で評価されているほとんどの俳人は消える運命にあるでしょうし、逆に、今まったく評価されていない俳人が歴史に顔を出すようなこともあるかもしれませんし、良識的な評家はそのような仕事をすべきだとも思います。(当然、キャノンの形成者としての「俳壇は」そのような動きを阻止する力となって働きます。)でも、結局のところ時は(あるいは代々にわたる民衆の判断力)は「俳壇」などというものの判断力を軽く凌駕してしまうということは、今までの俳句も含めさまざまな芸術領域の歴史が証明済みのことであると思います。 まあちゃん様
こんばんは。 コメント、ありがとうございます。 5年前の記事で、書いたことも覚えていませんが、 なるほどなるほどと、他人事のように読み返しました。 「俳壇」のことを「どーでもいい」と考えている(まったく関心がない)のは、この頃も、その前も、現在も変わりがありません。 ただ、これ、便宜上、こう呼ぶしかないケースもあるようです。 私は、多くの場合、「俳句世間」という語を使っています。
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