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身辺人事

麦の前会長の田沼さんが、ある句会の総評で「人事句が多い。自然を心棒に」とコメントされたそうだ。ある掲示板でそのことが報告されていたので、「麦は昔から、人事句が多いっすよ。田沼さん、何をいまさら。言うなら、もっと昔に言えばいいのに」と書き込んだ。だが、この「人事句」という言い方は、ちょっと微妙なところも含んでいて、「ああ、そうですか。では、人事句はなるべく作らないようにして、自然を詠むことにします」ということにはならない。

俳句の世界では、身辺人事句と自然諷詠句と大別されるようだが、この句がどっちで、あの句はどっちという分け方は、可能だが、あまり意味のあることではない。また、大別と言ったが、どちらに入れていいかわからない句も(ごく少数だが)出てくる--言葉から出発して言葉に飛んでいくような句、あるいはまったく別種として、身辺人事と自然(季語)が合成された句(このパターンはわりあい多い。多くの場合、季語=自然は斡旋=取り合わせとして用いられるので、身辺人事句に入れていいのかもしれない)など。

もうひとつ、これはややこしいので、あとにまわすが、「自然」の意味。こいつがなかなか手強い。

また、ほとんどの人(俳人)は、身辺人事句も自然諷詠句もどちらも詠むので、「人事句が多い。自然を心棒に」と言われても、うまく理解できない。

だから、考えてみる価値があるのは、人事か自然かの二分法ではなく、狭義の「人事句」、つまり、なんとなく悪い意味で用いられる場合の「人事句」だろう。

ここでもうひとつ断っておかねばならないのは、田沼さんが「人事句が多い」とコメントされた背景が、悪い意味の人事句かどうかわからないということ。それと、この句会の季題は「サンタクロース」と「蒲団」だったそうで(なんでまたサンタクロース? どうでもいいけど、半世紀軽く超えて生きてきてサンタクロースはないだろ?とは言わないが、田沼さんにサンタクロースの句を詠ませるなよ。って田沼さんが出したのかもしれないな、あはは)、この2題なら、「人事句」が多くなるのは当たり前だろう。人事句じゃなく、サンタクロース、蒲団を詠むのは、かなり難しい。

話を戻す。悪い意味の「人事句」の話。これも人によって解釈がいろいろだから、一概には言えないという前提、というか言い訳は必要だが、まあ、私の把握に沿って前に進む。人事句という言い方は、しばしば「身辺人事に堕した句」「身辺人事に過ぎない句」というニュアンスを含む。

身辺・日常の「ある事」「あるモノ」をある字数でまとめて、それに季語をプラス。それで面白い(面白いというのは、いまさらだが、私が使う場合、広義。良いでも素晴らしいでもなんでもいい)場合もあるが、しばしば、「そんなことは日記に書いておけばいいこと」ということにもなる。

といって、自然諷詠に、その手のことがないかと言えば、ある。

一方、身辺人事に大別される句で、良い句はないのか?と言えば、ある。身辺人事に堕さず、身辺人事を超えて、「日常」を伝える句はあるはずだ。いっぱい見てるものね、そんな句も。

それではどこで、人を吸引する句になるのかと言えば、それは「見る」ことによってであると、いまなんとなく考えている。「写生」という古くからある言葉と関係あるかもしれない。ないかもしれない。とにかく「見る」。

よく、作句において「感じる」という言葉が使われるが、これはウソだと思っている。感じてはいけない。感じる前に、見なければいけない。思うのはもっといけない。思う必要などない。「思う」「感じる」は、「見る」ことの邪魔になる。

よーく見る、いろいろな見方でよーく見ること(インプット・入力)で、身辺人事に過ぎないモチーフにおいて、身辺人事に「過ぎなくはない」ことが、どこかから降りてくることがあるのだと思う。箸の上げ下げも、よーく見れば、「へえー!」とびっくりするようなことが、言葉として降りてくるかもしれない。衣かつぎがつるりと逃げたり、箸が迷ったり、噛み跡があったり、そんな句は五万と読まされる(作っちゃったりもする:冷や汗)。だが、よーく見れば、そんなわかりきって擦り切れたことではないことが、言葉として到来するかもしれない。

もうひとつ、身辺人事を扱って、結果として、それが日常そのものであるなら、なにも句にすることはない。日記に書くほどのことでもない。日常のなかの、あれれ?という瞬間。これは表現するのが難しいが、日常のようでいて、すれすれに非日常。俳句は、そこをすくいあげるのにふさわしい形式だと思う。まるっきりの非日常を描くのではなく(それには他のブンガク形式のほうにアドバンテージがあると思う)、ベタベタの日常そのものではなく。

もちろん日常を日常のまま叙するのを良しとする考えもある。そこに季語をくっつけて、はい、いっちょ。でも、それでは、日常という現実のもつ機微や複雑さを備えることはできない。ここのところ、むずかしく、また未整理だが、日常と非日常の「あわい」のようなことが「俳句」の「俳」なのだろう。こう言うと、前のエントリーの「人間」と「人間でないもの」の「あわい」みたいなものとも関連がないわけではないが、これを考えると、話がややこしくなりすぎる。やめよう。

つまり、身辺人事べったりに言葉を連ねても、身辺人事(日常)の機微は備わらないのだと思う。よーく見て、日常が1ミリ非日常に傾く瞬間、それが言葉として降りてくれば、面白いことになる。言い換えれば、ひとり日記に記しておくにはもったいない、素敵なこと。人が見て、いっしょに面白がれるような「句」になるのだと思う。

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付記として、「自然」のこと。

最近、当然のことに気がついた。自然というと「天然のもの」のように漠然と考えてきたが、俳句の場合「環境」と言い換えるほうがよい。例えば、道がいっぽん延びている。これは人事ではない(人が作った人工物だが)。人事と自然の大別を、人事と天然というふうに固定的に考えると、人が敷いた道は人事で(こじつけっぽいが)、獣道が「自然」ということになってしまう。花火そのものを詠んだ句なども、人事句とは(感覚的に)呼ばない。

だから、自然諷詠の「自然」は、私と私たちを取り囲むものということになる。だから、「環境」。

(悪い意味でないほうの)身辺人事もまた、環境といえば環境だが、そこは区別しておくほうが不便が少ない(このへんの論理は端折る)。

私を取り囲む「自然」には、「環境」には、大学通りの桜も含まれるが、そこを走るバスも含まれるかもしれない。草原の喪失を詠むように、豆腐屋さんの喪失を詠むかもしれない。まあ、これは「自然」のある意味、本来に戻るということでもある。私を包む自然と、誰かを包む自然、その構成物・明細は若干(あるいは、かなり)違っていて当然なのだ。

ともかく、自然イコール天然という把握は、わかりやすいが、あまりにナイーブで、(少なくとも私には)使い物にならない。

とすれば、最初の田沼さんの言葉、「人事句が多い。自然を心棒に」は次のように解釈できる(私は解釈し、自戒とする)。
「自分とその身辺そのものにへばりつくな。私たちを取り囲むものに目を注ぐように」。
by tenki00 | 2005-12-30 00:53 | haiku
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