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桂信子氏「あっちとこっち」発言(ふたたび)っつうか(最後)

今年2005年1月、豆の木さんのチャットを拝読、そのことをブログ(旧ブログ)で記事にした。チャットのテーマは「あっちの俳句とこっちの俳句について」。桂信子氏の以下の発言(『証言・昭和の俳句(上)』(角川書店)所収・抜粋)を端緒にしたチャットだった。

「お~いお茶」みたいなの。あれ、何十万と応募があるんですってね。あれがあってもべつに私はかまわない。ただ、それとこっちと一緒にされたら困ると思うんです。
 黛まどかさんの俳句、「月刊ヘップバーン」とか、それもよろしいですよ。ストレスの解消になっていいと思いますけど、そういうのとこっちの俳句と一緒にされると困る。いちおう私たちは本当の俳句を守っていかねばいけない。次の世代へしっかり渡さないといけない。そういう人たちを私、「草苑」でできるだけ養成したいという気持ちです。


…という発言。さて、こんなことをなぜ、いまさら話題にするのかというと、ひとつには、この件を記事にしたあとで『証言・昭和の俳句(上)』を手に入れ、発言の前後の脈絡も読んだ、ということがある。その時点で付言的な記事しておくつもりだったが、延び延びになり、私にとってはちょっとした宿題のやり残しのような気分もあって、年内に片づけたい。

もうひとつには、最近になって、しばしば絡ませていただいているハイクマシーンの信治さんの記事書き込み(掲示板2005年12月12日 16:06:26)の中に「桂信子のいう『向こう側』」という文言を見たことがある。この「向こう側」というのは上掲発言の「あっち」のことのように思える(違ってるかもしれないが)。ただ、信治さんに反応するというだけではない。この桂氏の発言は、思う以上に、いろいろなところで議論や態度表明の端緒になっている気がし、それで、ちょっと扱う気になった。

まず、2005年1月当時の記事は、以下の3本。
あっちこっち http://sky.ap.teacup.com/tenki/150.html
あっちこっちⅡ http://sky.ap.teacup.com/tenki/151.html
「想像だけで議論」 http://sky.ap.teacup.com/tenki/168.html

いまざっと読んでみて、自分の把握や考えを大きく変更する必要は感じないし、議論の流れに付け加える点もあまりない。だいたいは言い切れている。そのうえで、『証言・昭和の俳句(上)』の話である。

桂氏発言(の抜粋・引用)を目にした方は多いと思う。だが、原典の記事(約40頁)を読んだ人はそれよりもずっと少ないと思う。そうじゃない? まあ、私は酔狂にも古本で見つけたので、買っちゃって、読んでみたわけだ。上巻には桂氏を含め6人の有名俳人の「証言」が掲載されている。聞き手はすべて黒田杏子氏。

買ってすぐに、桂氏の箇所をめくった。当該の桂氏発言がどんな話の流れで出てきたのか、やはり関心がある。抜粋を読むだけで、エスタブリッシュメントとしての「こっち」 vs なんだかちゃらちゃらしたヘボンだかヘップバーンだか俳句、それに「おーいお茶」俳句などが形作る「あっち」という図式は、すけすけによーくわかるのだが、そこはそれ、わざわざ「一緒にされたら困る」とはっきり口にしなければならなかった話の流れとは何なのか? そこは確かめたい。そう思ってページをめくった。

ところが、この発言、かなり唐突なのだ。話の流れなんてない。発言のほとんどは思い出話だ。雑誌で見ていた俳人の誰が男前で、句会に行ったら誰と誰がいて、そのうち仕事が忙しくて……。俳句そのものの話はほとんどないと言ってもいいくらいだ。悪く言えば下世話な、よく言えばカジュアルな話題に終始する。これは非難ではない。そういう座談だったのだろう。桂氏以外の俳人もそう変わらない。「証言・昭和の俳句」と銘打たれると、「俳句」が語られると思ってしまいがちだが、そう思って買うと、肩すかしを食う。俳句をめぐる周辺事情が、それぞれの目の届く範囲で語られている。読んでみて、俳人とは俳句を論じる人ではなく、俳句を作る人なのだった、と当たり前のことを改めて思い知らされることになる。ただ、かといって、俳論を滔々と語られても、多くの人には読みにくい。私にしても、そんなんじゃ胃もたれがする。俳人Aがどうした、Bがどうしたという話は、現時点で俳句愛好者の好奇心の知的レベルにちょうど合致するものでもあろう。

話を戻す。桂氏の思い出話が続き、記事が終盤にさしかかったとき、唐突に、この発言のくだりが現れる。「いまの俳壇、ちょっとおかしいですわ」という小見出しのあと、「これからの俳句をどうしたいかって、それを聞かれるといちばん困りますねえ(笑)」と桂氏は語り始め、そして先に挙げた「こっち」と「あっち」発言となる。つまり、唐突な質問へのとりあえずの応答なのだ。

取材の際の質問として、「それでは最後に、これからの××について、どうお考えですか?」は、ほとんどお約束のダンドリみたいなもので、相手が俳人だろうがIT長者だろうがホームレスのおっちゃんだろうが、変わることのないインタビューの締めの定番である。想像するに、聞き手の黒田氏も取材メモをちらっと目で確認して、この質問を発したのだろう。それに答える桂氏に、「待ってました!その質問。ひとこと言わしてもらいまっせ!」という感じはまったくない。「困ったなあ。まあ、例えば、おーいお茶とかー? 黛まどかとかー?」ということで、「あえていえば、こっちは違うという感じはありますわなあ」という感じなのだ。

この対比は、その内容がいかに曖昧であっても、図式としてわかりやすい。だから、各所に波紋を投げかける。桂氏がこのさき、「あっちとこっち」発言の俳人として記憶されるなら、すこし同情する。だって、話のはずみみたいなところもあるから。一方、同情できない点もある。「あっち」として挙げた現象というか集団が、「おーいお茶」俳人、そして黛まどかと東京ヘップバーンというのは、いかにも安易で、センス(感受性)を感じさせない。どっちも、どうでもいいでしょ? 普通にモノのわかるオトナなら。(この件⇒【付記】当エントリの末尾に)

そして、これは旧ブログの記事にも書いたことだが、「こっち」の俳句について、「造物主の、自然にあるそのものを詠うべき」とか「作品には命が」とか「永遠のもの」とか「消えないもの」といった、なんだかわからない標語のような言葉でしか語れないのなら、「こっち」の正体はタカが知れている。ただ、これはさきほども言ったように、唐突な質問に対する(準備のない)応答という点、勘案せねばならない。だが、それにしても空疎である。

ここで、「造物主って?」「作品の命って?」「永遠って?」との質問が発せられれば、検討に値する「内容」が出てくる可能性はある。標語のような語句が並べられるだけでは、何かを語っていることにはならない。だがしかし、これも、座談(取材)時間の制限やら何やらという事情があるかもしれないから、そこを問題にしてもしかたがないのかもしれない。ただ、ここでも同じ確認が私にもたらされる。俳人とは俳句を作る人であって、俳句を語る人ではないのだ。俳句を標語でしか語れないなら、俳句を語らず、俳句を作ることに専念すべきなのでは?とは思ってしまうが、これは当該の桂氏を指すというより、全般についてである。俳句について、必ずしも語らなければならないというものでもないだろう。

さて、まとめる。桂氏の「あっちとこっち」発言は、それを論じるほどの、また態度表明の道具立てにするほどの背景や論拠をもって語られたこととは思えない。背景は「なりゆき」。論拠は(特に「こっち」の内容に関して)まったくもって空疎。したがって、この発言に関する議論は、ほとんど不毛に近いと、私は思う。

後日、『展開する俳句』(松浦敬親・北宋社)という御本に、この桂発言をめぐる記事があるのを見つけた。御本全体を読む時間はとれていないが、1月の自分のエントリのこともあって、この記事だけを拝読した。記事では、桂発言に対する坪内捻典(字、合ってる?)氏のアンチ的言説が紹介され、著者は坪内氏の批判の不備や不誠実を衝く。だが、双方に私を納得させるロジックはなかった。党派表明に終わっている。桂氏のいう「こっち」との関係、自らの帰属を表明しているに過ぎないと読めた(断っておくが、この本全体にロジカルな説得力がないという意味ではない。だってまだ全体は読んでない。ただ、全体に向かって読み進める気力はやや萎えている)。坪内氏と松浦氏、御二方の論理がどうというのでは、あまりない。「あっちとこっち」にまつわることからは、ほら、やっぱり不毛でしょ?という思いを強くしたということなのだ。

俳人は、俳句を論じる人でも語る人でもなく、俳句を作る人なのだと言ったが、私の個人的な把握からいえば、俳人は、論じることも語ることもその必須条件ではなく、さらには作ることも必須条件ではない。俳人とは、俳句的なモノゴトの見方をする人のことである。私自身はそう考えている。その意味では、党派的思念は、「俳」の埒外である。党派性に終始する人は(私の把握に従えば、何冊句集を出していようと、また大結社主宰であろうと)、俳人ではない。

【付記】おーいお茶的なもの、ヘップバーン的なもの
どっちもあんまり知らないで、「どっちもどうでもいい」などと言ったが、「どうでもよくない」側面も確かにある。俳句というものが、通俗・凡庸といった部分(価値をいうのではなく)をどうしようもなく持ってしまっていることは覚えておくべきだろう。それの最もわかりやすい現象として、先のふたつはある。「おーいお茶」俳句、ヘップバーン俳句(どんなんだ?)は、そのふたつの当事者を自認しない人からも、産み出されているんじゃないの?という意味。結社で、あるいは、このインターネットの無数のサイトで、おーいお茶的なるもの、ヘップバーン的なものが毎日毎日大量に産み出されて(排出されて)いないと誰が言えるだろう、って反語使うほどのことか? つまり、通俗・凡庸と無縁にいられる俳人はどれほどいる?(嫌な薄ら笑い)ってことだ。もちろんのこと、私も含め。

そう考えると、ひょっとしたら、桂氏は、みずから、そしてみずからの陣営の内なる「ヘップバーン」性、「おーいお茶」性を敏感に察知し、それを恐怖し、だから「あっちと違う」という言葉が口をついて出たのかもしれない。それなら、くだんの発言は、ちょっとコクのあるものとなる。
by tenki00 | 2005-12-14 19:48 | haiku
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