葉月ちゃんの××流出

こういうタイトルにしておくと検索で来訪者が急増するかもしれない。

ま、それはともかく、ひとつ前のエントリーへ、葉月さんからコメント10連発。多謝多謝多謝。多謝としか言いようがない。

がっし   (キスでは飽きたらず、強く抱きしめる)

皆さんもゆっくり読んでいただきたい。

http://tenki00.exblog.jp/1774783/

読んだ? 面白いよね。葉月さんは、何かを論じさせると、全然ダメだけど(笑)、こういうふうにぶつぶつぐだぐだ自分のことを書くと、素晴らしいです(本気で褒めてます)。これからは掲示板などで何らかの論点が発生しても、絶対に関わらないことです。葉月さんは、思考もエクリチュール(笑)も、議論には向いてないのです(本気で褒めてます)。

私もすこし書いておこう。覚え書きみたいなもので、何かを展開させようというのではない。トピックは、葉月さんの「頭がうんぬん」へのこだわり、そして葉月さんのなかの「中国」という存在、この2つについて。

1)中国

葉月さんの豆の木掲示板での書き込みに、日本ではなく東洋の語が使われていたのは、つまり「中国」という存在があったわけだ。なるほど。タチの悪い中国人(目から鼻に抜けるような人たち)と付き合い、気後れを感じてしまったわけか。そこが西欧人攻撃(フランス人はバカ)と奇妙な繋がりを持ってしまった。なかなかに歪である。

歪なら歪なままで生きていくしかない葉月さんだが、私自身は、今の中国(人)の在り方に、軽蔑と嫌悪感を抱いているので、葉月さんには「ご愁傷様」と申し上げるしかない。葉月さんもおっしゃっているように、中国のプレゼンスは、残念なことに今後、巨大化する可能性が高いので、このさき、葉月さんと同じような憂き目に遭う日本人は膨大なものとなるだろう。私たちの世代の子・孫の世代には誠に「ご愁傷様」である。歪な西欧観、そして歪なナショナリズムも増えていくだろう。なんだか暗い気分になる。

そういえばと卑近な例に思いが到るのだが、私たちの頃には、大学の第二外国語(そんなのがあったよね)は、フランス語、ドイツ語が多く、中国語クラスはたった1クラスだった。ところが、20ほど年若いアルバイト君から聞いて、びっくり。数は忘れたが、20年間(70年代から90年代)で中国語クラスがとても多くなっていた。この事情が、私にはまったくわからない。中国語? そんなもの学んで、いったい何をどうする? フランス語を選択しても、何をどうするわけでもないが、ごく一部の熱心で勤勉な学生にとっては、バルト、フーコー、ラカン、ドゥルーズ、もっと古くは現象主義なんかを囓る土台にはなる(そういうフランス現代思想が流行時期だったんだよね)。ところが中国語で、いったい何を読む? まったく理解不能。でもね、今日、葉月さんのコメントを読んで、わかったとまでは言えないが、なんとなくふわーっと感じるものがあった。当たり前だけど、時代は、世界は、変わりつつあるのだ。

2)アタマ

このところ出版業界には「アタマが良くなる」「頭がいい人」といったクソ本が多く登場している。葉月さんの「アタマ」への思いは、そんな事情よりも深刻である。他人事のように語って恐縮だが、トラウマ? だが、それも、葉月さんが自分ひとり、孤独に抱えていくしかないわけで、私が何かを言えるものではない。だから、雑談に持っていくしかない。

人のアタマにはそれぞれ、CPUやらハードディスク容量の差があって(たいした差ではないのだが)、それはきちんと冷静に見つめないといけない。自分のスペックも他人様のスペックも。
(※念のために言っておくと、このスペックはIQとは無関係。葉月さんはやたらとこのIQを挙げるが、IQは子どもの成長度合いを測る成長指数のひとつ。成長期を終えた人にこれを当てはめてもほとんど無意味)
一方、社会的には、「アタマがいい」ことが良いこととされる風潮が強くなっている。さっき挙げたクソ本がそこそこ売れることからも、それは言える。ひょっとしたら、「勝ち組(大笑)だけが優遇される社会 by 社民党(大笑)」というこのところの傾きも影響しているのかもしれない。だが、私のスタンスは終始一貫している。「アタマが悪くて何が悪い?」

それよりも前に、99.999%の日本人(人間)は、アタマが良くも悪くもない。フツーである。それなのに、良いとか悪いとか、なに言ってんだろ?

私がこれまで出会ってきた人の中で、「この人のアタマはスペックが違う(もちろん高いという意味だけど)」と思ったのは、ひとりかふたりである(ひとりは人類学者)。それくらいに稀有である。そのほかはぜーんぶ、フツー。悪いも良いもない。これが私の捉える現実である。

一方で、葉月さんがおっしゃる「頭が良く見えるように立ち回る」という、みみっちい習性も理解できないわけではない。きわめて現実的に、シノギ(仕事)の打ち合わせなどで、「こいつでほんとに大丈夫か」と思われるようだと、少々困った事態も招く。私を守ってくれる組織はひとつもないので、バカにしか見えなくても毎月給料がもらえるというわけにはいかない。もし私が、何かの打ち合わせのとき、口をぽかーんと開けたまま、何を聞かれてもにやにや笑っているだけというのでは、バカがばれてしまい、やがて仕事が来なくなるだろう。そうなると飢え死にである。

だが、とりたてて「アタマが良さそう」と見える必要はない。ここで一般論に展開するが、「アタマが良さそうに見えて、実際に仕事をさせてみると、そうでもなかった」というパターンもつらいものがある。良さそうに「見えて」もしかたがないのだ。(私が関わっている仕事の個別の事情かもしれないが)どんな仕事をするかでアタマのスペックは丸見えとなる。

アタマのスペックの個人差は、ほんの若干とは言ったが、あることにはある。もちろん、それは「どう見えるか」という問題ではない。実際、よく教育されて、使い慣れたアタマというのは存在する。私は職業柄、いろいろな分野の人と会い、スペックを垣間見るような付き合い方もする(つまり、少々込み入った事柄を話し合う)。たとえば、外資系コンサルティングファームのおにいちゃんたちは、世間的には「アタマのいい人」たちだ。企画書に記された学歴も「東京大学大学院」やらアメリカの有名大学の名がずらりと並ぶ(言うまでもなく、そんな学歴はアタマのスペックを保証するものではまったくないのだが)。そういう人たちは「見える」だけじゃ食っていけない。気の利いた思考の手順を踏むことができないといけない。こういう人たちと話していると、正直、楽しい。面白い。ふうん、なるほどなるほどという感じ。でも、私が出会った彼等の話は、楽しく面白くはあるが、フツーのアタマの私に、エレガンス(簡潔簡明)を感じさせるほどではない。また、どこにも収束しきれない複雑さを含意として伝えるものでもない。つまり、彼等のアタマの性能の良さの程度はあくまで「若干」で、フツーのアタマの私たちと同じ世界に住んでいるという感じだ。つまり、たいしたことはない。

性能の良いアタマに対する葉月さんのこだわりは、だから、私からすると、「ずいぶん大変だなあ」という感じ。だって、何度も言うように、みんな(ほんのごく少数の例外を除いて)フツーなんだから。

フツーで充分に生きていけるし、若干おつむが弱くても(これが実は大変膨大)生きていける。しかも楽しく幸せに。

幸せになったもん勝ちである。でしょ?

私は、んんん、どうだろ? 幸せに暮らしているといえると思う。
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by tenki00 | 2005-09-14 20:53 | pastime
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