金沢 その2 墓参り

金沢の食べ物を食って、買い物をして、風景を見る。これはカタログ的なツーリズムを大衆消費社会(J・ボードリヤール)的脈絡で忠実にこなしているということである。ちょっと導入にフェンイトかけてみたが、どう?

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さて、金沢の話。お墓参りは、2カ所に行った。義父の父上や母上の眠る墓。それと、義父の叔父にあたる人の墓である。簡単に書くとこうなるが、このあたりの事情は実は、たいへんに妙味深く、私にとっては大河小説並みのスケールを持っているのだが、ここでは書ききれない。

義父は、父を早くに亡くした(小学生の頃か)。yuki氏や私から言えば祖父だが、その祖父のことを、義父は写真や母親(yuki氏や私から言えば祖母)からの伝聞で知るのみ。祖母は多くを語らないまま、義父が20歳かそこらのときに亡くなった。祖父の写真を、以前に、見せてもらったが、数枚残るうちの一枚にロシア人女性と一緒に映った写真があった。独身で満州にいる頃の写真らしいが、そのあたりの事情は、義父にもわからないらしい。

祖母は、祖父の死後、つまり未亡人となってからは、お針子さんを集めて商売をしていたそうだ。気丈な人だったらしい。祖母の写真を、以前に見せてもらった。お顔が、yuki氏にとてもよく似ていると思った。

yuki氏や私は、父(義父)から、すこしの話(父の推測を多く含む)を聞き、写真を見せてもらい、金沢の土地と父(義父)の関係を、頭の中でぼんやりと思い描いた。だが、ぼんやりは、私たちだけではない。父(義父)にとっても、そうなのだ。つまり、義父は金沢の産であることは間違いないのだが、その紐帯の具体については、ある部分、濃い霧がたちこめているようなのだという。

金沢には義父の「親戚」がたくさんいる。親しくもしている。だが、そうした親戚は、すべて、義父の母方の親戚である。義父の父、あの満州でロシア美人と写真におさまっていた若者の出自を詳しく知る人は、すくなくとも今はいない。当然ながら、その親戚たちの姓は、義父の姓ではない。義父の姓(つまりyuki氏の旧姓)をいま名乗るのは、義父の家族だけだ。そのことはふつう、金沢という地縁、あるいは過去の血縁とは繋がりの切れてしまったことを意味する。ところが、親戚がいまも金沢に暮らし、義父や義父の家族が金沢に「帰った」ときは、親しくする。私も、親戚の人たちとお会いしたことがあるが、みな好人物を絵に描いたような人だ。

義父の叔父にあたる人の墓については、さらに興味深い経緯がある。義父があるとき昔の写真を整理していて、「M」という漢字2文字の姓が手書きされているのを見つけた。その、聞いたことのない苗字が義父の頭に引っかかった。あるとき(今から2、3年前のことだ)思い立って、ひとり金沢に出かけ、電話帳に並んだ「M」という苗字の電話番号を指でたどり、上から順に電話をかけた。「つかぬことをおうかがいしますが」と切り出し、自分の苗字を告げ、その苗字と過去に繋がりがないかどうかを訊ねていった。

寡黙な義父が、1本1本、電話を繋ぐ。その話を聞いたとき、私は興奮した。ルーツ探しの話は数多いが、エキサイティングである。母方の親戚からわからぬ父の出自を探るのに、2文字書き残された苗字だけを頼りに電話をかけていったのだ。

はたして、何番目かの電話の相手が「そういえば、墓所にある墓石にその苗字があった気がする」と答えた。すぐさま、義父は、その電話の家を尋ねた。義父の父の出自にある霧がすっかり晴れることにはならなかったが、義父は、金沢との紐帯、亡父との紐帯の1本は見いだした。

私たちが今回、その墓を訪れたとき、M家のおばさんが迎えてくれた。義父が何本目かの電話で話した女性だった。義父が会うのもまだニ度目、その他の家族、つまり私たちは初対面である。だが、おばさんは親戚のように私たちを迎える。墓所の片隅にある古い墓石には、M家とは別の苗字、つまり義父の苗字のの男性が、大正年間、憲兵伍長として若くして亡くなったことが記されていた。いま生きているM家の人たちには、その憲兵伍長のことは、おぼろげにしかわからない。詳細はすでにわからない。なぜ、自分たちの父祖が眠る墓所に、苗字の違う男の骨が眠っているのかは不明なのだ。しかし、その場に骨があるという紐帯は尊ぶ。その紐帯によって、M家のそのおばさんと私たちは、八月の灼けた青空の下、ひとつの墓の前で挨拶を交わしている。

満州に暮らした写真の青年は、義父と似ていた。義父をちょっと細面にした感じだ。義父のルーツ探しは、この青年の出自の詳細を明らかにできなかった。私やyuki氏にとって、祖父は物語の中の青年のようだ。それは義父にとっても同じかもしれない。

そして義父が物心つくかつかないときに、その男は亡くなり、yuki氏に似た義父の母は、いわゆる「女手ひとつ」で義父とその妹を育て、やがて、義父が東京の大学に行く頃に、事故で亡くなった。義父は旧制中学時代を京都で過ごしたので、金沢にいたのはずいぶんと短いことになる。それでも、義父は、金沢で穫れた人なのだ。夏のたびに、(ほとんどは義母とふたりで)金沢へ帰り、いろいろな人、生きている人たちやもう亡くなった人たちと会っているのであった。
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by tenki00 | 2005-08-23 18:26 | pastime
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