コンテクスト3.11

しかしまあ、なんですね。

  凍星や孤立無援にして無数  高野ムツオ

こんな句まで、震災というコンテクストを呼び寄せるのか、と、スピカの座談記事を読んで、思ったですよ。

「や」をどう読むかは人によって違うようで、私は、一物の「や」と解して、つまり、「凍星」というものは「孤立無援にして無数」であるぞ、と、まずは読む。その後、どのような含意を交響させるかは別にして、最初の読みとしては、いわゆる取り合わせとしては扱わない。

まあ、そんなことより、震災コンテクスト。この句が掲載されたのが『小熊座』という宮城の俳誌であるという、それが強力なコンテクストであることは、まずあるとして、3.11というコンテクストが、俳句の読みを広く覆い尽くす状態は、あと何十年かそれ以上も続くわけですね。

もちろん、実際のところ、津波や地震という語が〔コンテクスト3.11〕による読みの拘束から、当分のあいだは逃れることができない。そのことは致し方なく、また当然としても、〔誰が〕〔どこで〕作ったか、といった「生産地情報」が大きく頭をもたげるというのは、ちょっと異常な、といって悪ければ特別な状態で、こりゃあいったいいつまで続くのでしょうか?

「この野菜、福島産?」「いや西日本です」とかといったレベルですよ、こういうのって。


念のために言っておくと、こういう状態を憂いているわけでも、批判的なわけでもありません。俳句の「読み」そのものを変えてしまうくらいに、3.11コンテクストは強烈なのだなあ、と。これは、当たり前のことに今更のように感慨をもって接したということなのです。



一方、死は語られることで死となり、不幸は語られて初めて不幸となる、という面はあるわけで、例えば、あの3月11日にも、語られることのない死が無数に、同時的に存在したわけです。喉にモノを詰まらせたとか、毒蛇に噛まれたとか、クルマにはねられたとか、ね。

物語られることで、死は、不幸は、多くの(生き延びた/幸福な)人によって感情的に共有される。

とすれば、「俳句化」とは、きわめて儀礼的な行為(葬儀に類する)なのかも、ですね。


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by tenki00 | 2012-05-16 20:00 | haiku
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