地震や津波の俳句

明日で1年ですね。長く感じましたよ、この1年。


震災・津波被害の句について、いろいろ言われている。

いろいろ言われてはいるが、私は、単純に、「もし自分が~なら」と考えてみる。

(私は3月11日に《そこ》にいなかったけれど、それは偶然に過ぎない)

もし自分が津波で亡くなっていたら、と想像するのは、わりあいに難しい。苦しみや無念を自分のこととして想像きることができるのかという点で。それに、「もし自分が《彼》だったら」と仮定し、想像できたとしても、いま何かを言うことはできない〔*〕

でも、「もし自分が大事な人を失ったのだとしたら」…その仮定や想像は、すこしできます。

もし自分がそうだとして、あるとき、地震や津波を暢気に詠んだ暢気な俳句を目にしたら。

きっと吐き気がするだろう。


文学的な話でもなく、文芸を語ろうってわけでもない。それに、あくまで、私は、という話。

で、暢気じゃない句はその限りにあらずなのか? また暢気じゃない句とはどんな句なのか? そこは、むずかしいところです。

(でもまあ、ほとんどは暢気ですね、生きている人が書いている以上。
書くのはつねに死なずに生きている人、という暢気さの宿命を背負うわけです、この手のものは)



一方、俳人が地震や津波の句を「詠むべきか詠まざるべきか」「詠むとしたら、いかように?」といった議論もあるにはある。でも関心はない。そうした議論を見ていて、言っている人がいかに慎みや禁欲に留意しようが、ほとんどの言説が自己陶酔的に響いてしまうことに気づいたからだ。これ、自分が表現(爆笑)する人なのだという自意識から来るものだろう。

書き手のとしての矜持は大事かもしれないが、それは傲慢と紙一重。「ふだん何してて、何を突然たいそうに?」ということもあるわけです。

とまれ、口に出す前に、句にする前に、なんらかのことのためのひとりひとりの時間があって、そのうえで、私に届く句がないわけではないでしょう。それが到来するときのために、それを読む用意はしておくつもりです。


〔*〕死んでしまって、いま何も言うことができない人を「代理」して詠んだのが斉藤斎藤の短歌だろう。≫http://weekly-haiku.blogspot.com/2012/02/20123-31130.html

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by tenki00 | 2012-03-10 20:00 | haiku
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