齋藤愼爾氏の『震災歌集』批判を読みました

俳誌『夢座』第167号(2011年10月)に掲載された齋藤愼爾「生者と死者のほとり」を読みました。長谷川櫂『震災歌集』批判に紙幅の多くを費やしたもので、さるお方のご厚意で、複写をいただいたのです。

短歌は、まあ、さておき、歌集の「はじめに」から引いて、
(…)「温暖化など地球という星の存亡が問われながら、電気やガソリンを市場原理のみに任せて湯水のように使いつづけていいのか」とは、誰に向かって糾問しているのか。
と逆糾問する部分。

こういう「~使いつづけていいのか」という文言はよく目にしますが、これって、なかなか言えることではありません。

言っている本人が、ガソリン車に乗って、家のあかりを煌々とつけていたりすれば、それはもう悪い冗談でしかなくなってしまいますから。

ガソリンも電気も使わず山奥で仙人のような暮らしをしている人だけが、こういうことを言う権利がある、と言うのではありませんが、このへん、環境問題のむずかしいところです。

政治家や科学者が大型のガソリン車に送迎されて環境会議に集まるというもの悪い冗談といえば悪い冗談ですし、ガソリン車が「悪」という議員がみな電車で東京を移動しているかというと、そうではないでしょう。ゴア元副大統領の私邸の電気代が莫大、というすっぱ抜きもあったりで、「地球という星」の未来を憂う人たちが発する啓蒙的・先導的文言は、しばしば文言のみ。繰り返しますが、環境問題のむずかしいところです。

いずれにせよ「多」へと拡声器で喧伝するような言説(短歌や俳句を含め)は鵜呑みにしない、というのが私自身の考え方です。

話が逸れましたが、『震災歌集』。読んでいませんし、まちがっても読む予定はありませんが、意識の低い「国民」のひとりとして野次馬的に、「手っ取り早い商売」というくらいの感想しか持っていません。

というわけですが、最後に。

齋藤愼爾氏が記事の後半で、粗悪なファストフードをテーブルから一掃して、ホンモノの料理をひとつ置くようにして挙げたこの短歌。

  原子炉の火ともしごろを魔女ひとり
     膝に抑へてたのしむわれは    岡井隆
  
「二、三十年前」に読まれたこの歌を知ったことが、私にとって最大の収穫でした。


[PR]
by tenki00 | 2011-12-04 20:00 | haiku
<< 甦る西部劇 手書き >>