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俳句をつくること=演奏

週刊俳句・第240号・後記(≫こちら)にある楽譜と「奏者による演奏の"癖"」という部分、音楽をやる人には、わかりにくいだろうなあ、と思いながら読みました。

「癖」で奏者の個性が出るということではないですし、それに、酒席でのご友人の話から言えば、作句=作曲みたいな感じでしょうし。

しかし、ま、かたいこと言わずに、音楽と俳句の譬えは、私もまえまえから関心を持っています。この生駒氏の「後記」とはちょっと離れますが、こういうことです。

音楽には、曲づくり(作詞・作曲・編曲)と、そしてそれとは別に、演奏というものがある。この演奏という部分、パフォーマンスの部分が、俳句などをやっていると、うらやましくてしかたがないのです。

例えば、スタンダード・ナンバーは、何十年にもわたって、無数の奏者が演奏する。クラシック音楽もそうですね。ポップ音楽も、カヴァーというパフォーマンスがあります。それにまた、自分で作った曲でも、それを演奏する際には、演奏の楽しさがある。

「音楽をやる」ということに、曲をつくることだけでなく、パフォーマンスという行為がくっついてくること。これは楽しい。自由で風通しがいい世界のように思えるのです。

翻って、俳句。句をつくること=曲をつくること、と捉えると、音楽には存在するパフォーマンスの部分がかけてしまい、これは、もう、なんというか、心が晴れない。俳句は、音楽と比べて、なんとも窮屈に思えてくる。

ところが、これに、いい解決策を見つけました。もうどのくらい前か忘れましたが、岸本尚毅が、なにかの本で、俳句は作曲ではなく演奏なのだ、といったことを書いているのを見つけたのです。

曲は、季題。俳句をつくることは、季題という曲を演奏することだ、と。

作句がパフォーマンスであるなら、私の気は晴れます。

句をつくることは、作曲ではなく、パフォーマンス。うん、これですね、と。作句を、いわゆる「創作」と考えるのはやめました。

作句がパフォーマンスなら、曲にあたるものは何でしょう?

私には、岸本尚毅のように「季題」とは言えない。だから、曲は「俳句という形式」、そして「自分を取り囲むもの」と考えることにしました。「俳句形式」「自分を取り囲むもの」という曲(楽譜)を演奏するのが作句。

こう考えると、気分が軽くなります。

創造性(クリエイティビティ)? それは私にはあまり要らない。曲(俳句形式)がすでに創造性豊かだから。

書く動機(モチベーション)? 私個人にそれを問う必要がない。パフォーマンスへの欲求は、身体的なものです。ボールがあれば、それを投げたり打ったりしたくなる。俳句を作るのもそれと同じ。

創造性も動機も要らないとなると、何が必要か? それは、まあ、演奏を楽しむ気持ちと演奏技術くらいでしょうか。気持ちと技術。これ、ほしいですね、切実に。

というわけで、作句は、演奏なのでした。



by tenki00 | 2011-11-28 22:45 | haiku
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