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配偶者 有・無

繰り返される問題なのですが。

生駒大祐「主体に関する短い質問状」
http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/09/44.html

主体、なんて言うと、なんだか小難しそうだし(ちょっとカッコいいということなのかしらん)、大袈裟なので、≪A 書き手≫と≪B 俳句の登場人物≫の問題くらいでいいんじゃないかと思うのですが。

≪A 書き手≫についてもう少し言えば、その生物学属性(性別・年齢)・社会的属性(職業・年齢等々)。≪B 俳句の登場人物≫については、それが誰か、ということですよね。

そこでですが、生駒氏の記事は、男性・性と女性・性の話題にまで拡がる(というか、これがメインか)わけですが、それは「主体」の問題と分けたほうがすっきりすると、私は思っています。性のモチーフは、書き手から離れて、俳句そのものとして扱えるものだし、その書き手なり登場人物の如何についての身辺調査のような作業は、必ずくっついてくるものではないので。

で、とりあえず、書き手と登場人物についての話なのですが、生駒氏が『俳句』誌から引いた次の箇所が興味深い。
(「雲海の底に妻らは働けり 中村安伸」 に対して)
西村和子(以下西村) 奥さんがいるんですか、中村さんには。
こういう、書き手の現実への興味というのは、俳誌でよく目にします。

私は素直な読み手なので、この句を読んだら「ああ、作者には妻がいるんだな」とほぼ反射的に思います。意識するほどのこともなく、「作者の妻」の存在は瞬間に前提となります。ただ、ここが重要なのですが、書き手である中村さんの現実のなかの「妻」を前提とするのではありません。作者としての中村安伸には妻がいる。そう読みます。

ここで、思い当たったのが、この句(最近ツイッターで話題にのぼっていました)。

  野遊びの続きのやうに結婚す  山口優夢

これを読んで、作者は結婚するんだ、あるいは、結婚したんだ、と読む。ところが、ここで現実の山口優夢という人について、私が知っているだけに、ちょっと軋みのような感触も残る。現実の優夢君は、私の知る範囲で、まだ結婚していない。だから、「結婚するなら野遊びの続きのように」と解するのが、作者の優夢君と現実の優夢君の折り合いを(私の中で)つけるにはいいのかもしれない。

例えば『俳句』誌で、この句が取り上げられたとしたら、やはり、「山口さんは、結婚したんですか?」という質問が発せられそうだ。

そのとき、作者の現実的事情=俳句の内容、あるいは、俳句の登場人物=現実の作者、が読みの前提にする人が読めば、この「野遊びの」の句には、ウソ、あるいは虚構が入っていることになる。


では、既婚者がこの句を詠めば、どうなのか。ウソにはならないのか。

「野遊び」の句を見て思い出したのが、むかし作った句。

  はつなつの土手をぶらぶら入籍す

この登場人物は「誰か」ではなく、書き手(私)、と解されるように書いています。私は既婚です。入籍もしています。だからウソはない。…といえるかどうか。入籍したのはずいぶん昔の話だし、時期が初夏かどうかは知りません(嫁はんに任せっきり)。

ありゃま、ウソじゃないですか! という人もいると思います。

もちろん、この句の気分にウソはありませんが、んんん、難しいですね。


結論というのは、現時点では、とりたててありません。

ただ、読み手として自分は、作者が現実に如何なるものなのか、よりも、俳句における作者が如何なるものかを優先して信じたいと思っています。身辺調査は、不要かな、と。


by tenki00 | 2011-09-24 23:16 | haiku
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