ふたつの俳句ウェブマガジン創刊

俳句のウェブマガジンが相次いで創刊されました。

詩客 SHIKAKU
http://shikaryozanpaku.sitemix.jp/blog/

spica http://spica819.main.jp/

どちらも Wordpress というブログサービス。これ、デザインがよくて、カッコいい。タブを使えるようで、見た目、ブログというより、いわゆるホームページ風。



「詩客 SHIKAKU」の創刊準備号から創刊号を見ると、ボリュームの凄さが目につきます。

私がまず読んだのは、山田耕司「俳句時評 第1回 「わたくしごと」と「私性」

いわゆる「震災俳句」を取り上げ、個人の「「やむにやまれぬ」思い」と俳句という作品・俳句を作るという行為のあいだの距離のようなものを扱いつつ、後半は、島田牙城『誤植』評、樋口由起子『川柳×薔薇』評へと展開。誠に洗練された時評。

前半部分の要諦のひとつは、(自分なりに言い換えますが)、「善意からやってる句に、ひでえ句だな」とは言いにくく、そうした空気は、結局、俳句を貧しいものにする」というようなことでしょうか。

私個人は、一方で、被災地の外から被災地へと「向けて」発せられるもの(慰藉にせよ励ましにせよ)、作るほう、発するほうは、まあ置いておいて、それに付き合わされるほうは大変だなあ、と、二次災害とまでは言いませんが、そう想像します。

山田氏の時評は、オカネの話から書き起こすことで、アイロニーが、音楽でいえばギターのカッティング(コードストローク)のように全体のビートの寄与しているようにも思いますが、これは誤解・誤読を招くこともあるだるなあ、と。つまり、個人の営為とは区別されるべき社会的な呼びかけも、寄付という実効がもたらされるから、それはそれでいいいんでじゃあないの、という、別の話へと、容易に迷走してしまいそうな感も。

まあ、それはそれとして、この問題は、次のような記事とも関連。

関悦史「被災と俳句」
http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/05/29.html

それと、spica掲載の
「瓦礫みな人間のもの犬ふぐり」(高野ムツオ)について4氏が語る記事
http://spica819.main.jp/yomiau/90.html


話を少し戻すと、「じゃあ、被災地で、被災した当人が詠めばいいのか」という問題。私の捉え方は、ここで弱点が出てくるのですが、個人の体験と表現とは別、ということが、やはりあります。

上記spica記事で、高柳氏が「当事者だから必ずしもいい句が読めるってことはね、冷酷な話だけど、それはまた別の話だから。」とおっしゃるとおり。

あわせて、山田氏の次のスタンス。

「やむにやまれぬ」思いとは、まことに人の感情から沸き上がるものであり、あくまで「わたくしごと」に属するもの。
「わたくしごと」が、表現として成立するためには、言語への技術や方法意識などによる「作家の内面の客体化」のような作用も求められるし、第一「わたしはこんなつもりで作りました」という「わたしらしさ」などをうち棄ててくる覚悟が重要である、というのが山田の姿勢。



いろいろと考えなければならにことは多いです。



「詩客」も「spica」も、その更新頻度(デイリーも組み合わせている)、記事量からして、たいへんな作業だろうなあ、と想像。続刊を楽しみにしますが、無理のないところで長く続いてほしいと、外から勝手なことを思うのでした。




[PR]
by tenki00 | 2011-05-03 07:44 | haiku
<< ロイヤルということ 多田便利軒 >>