ヒヤシンス

幸福とか不幸とか、そんなにはっきりとシロクロつけられるものでもないし、いま幸福か不幸かと訊かれてもどちらと答えることはできず、そもそも幸福とか不幸というのは気の持ちようでもあるし、例えば、他人にとってはどうでもいいようなことにも幸福は見つけられるし、けれどもそれは不幸と思い悩み続けてはいらないことからくる自己防衛のようでもあるし、と、幸・不幸は、現実的にも物語的にも、いかにもふわっとして、ぐにゃぐにゃした、形の定まらないないものとして、腰のあたりだか、後頭部だか、どこかにぶら下がっているものだ。いや、しかし…

   ヒヤシンスしあわせがどうしても要る  福田若之 (週刊俳句・第208号

「しあわせ」はもっとはっきりと希求されていいものかもしれない。この句を読んで、そう思った。

いつのまにかふわふわぐんにゃりしてしまっただけで、本来は、かりこりとして確かな、それこそ手に握りしめたり胸にかき抱いたりできる、だからと言ってけっして物質的なものではない、何か、だったのかもしれない。

「どうしても?」
「そう。どうしても」

この句の願いは、欲望というものではない。欲望とは、まあいわば生物的なものだろう。それとは違う。なんなのだろう、このかなしいほどの切実さは。


ヒヤシンスの力(ちから)なのか。ヒヤシンス力(りょく)? 俳句業界用語的に、季語の働きやら作用、なんて言いたくないが。




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by tenki00 | 2011-04-18 11:00 | haiku-manyuuki
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