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俳句のなかの行為者

週刊俳句・第199号・まるごとSSTプロデュース号より

  冬至湯に頭まで浸かりぬくよくよするな  榮 猿丸

なに、泣かせてるんだ? この句w

こういうのに弱いから、ほんと、涙してしまう。

で、この句、誰が浸かっていて、誰が誰に向かって「くよくよするな」なのか。そのへんは、どうとでも取れそうだ。作者が自分に向かって言ってるのかもしれないし、身近な人に向かって言ってるのかもしれない(つまり、浸かっているのは作者ではない)。

俳句では、行為者が省かれることが多い。その場合も読み方は、きほん、作者が行為者とされることも多いようだが、決めてかかることはないと思う。行為者が誰かという欄は「空欄」と読む。誰を代入してもOK、というわけではないが、空欄、空虚。



【追記】
猿丸さんの句は、よく「表面性」が言われるけれど、
内実には青春性もあると思う。多少の甘ったれた哀しみがなければ、
ロックはできないのですね。
相子智恵「SSTには期待しない」

掲句がまさにそうですね。

この青春性に光を当てた素晴らしい猿丸論が、梅﨑実奈「夢のあらわれ」

青春性とは、つまりは、時間の喪失。「色褪せた未来図」ならぬ、色褪せた写真、色褪せた絵葉書のようかもしれません、ある種の俳句は。



で、余談。拙句で恐縮ですが、むかし、

  煤払ふやうな目をして求愛す

という句をつくったところ、この行為者は作者(つまり私)というふうに読まれてしまい、ちょっと面食らったことがある。

私がそんな目をしたら、気持ち悪いぞ。

自分としては、「煤払ふやうな目」と目を言っているのだから、これは作者の目ではない(だって自分の目は見えないもの)。誰かの目を言っていて、求愛しているのも、その目の持ち主。そのつもりだったが、違う読み方も、事実として生じてしまった。

省略された行為者は、とりあえず作者とする、という読みは、私が思っている以上に広く浸透しているのかもしれない。

よくわからんのだけれど。




by tenki00 | 2011-02-18 19:00 | haiku
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