俳句想望俳句と第二芸術論?

福田若之さんの(「週刊俳句」第198号)
「俳句想望俳句」はロラン・バルトの夢を見るか?
http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/02/blog-post_06.html

これ、とてもおかしなことになっている。つまり、こんがらがっている。



記事の要点をひとことでいえば、小野裕三さんの「俳句想望俳句」という「レッテル貼り」(福田)に異議を唱えるというもの。そのために、「俳句想望俳句」というアイデアがどこから出てきたのかを探る。どこかからかといえば、俳句がしばしば外部からの圧力が変革の衝動になってきた(一例が桑原武夫「第二技術論」)という小野の俳句史観から出てきたものだろうと言う。

ここまではいいのだが、それからが奇妙。福田さんは、「第二技術論」の内容に対して批判を重ねる。しかしながら、小野さんは、「第二技術論」が何を言っているかを問題にしているのではない。「第二技術論」が俳句に与えた衝撃を言っている。

だから、俳句史において「第二技術論」が俳句を動かさなかったと、小野さんに向かって反証を挙げるならわかるが、その内容について、いくら批判を重ねてもしかたがない(その内容批判にしても、枝葉に噛み付く範囲を出ない)。

この土台の部分が崩れているので、全体の論旨が成立しない。「俳句想望俳句」という「レッテル貼り」への、いくぶん感情的な反発以上には読めない。というか、論として読めない。



というか、全体に、非常に読みにくい。理由のひとつは、導入部分で、どうでもいいこと(「俳句想望俳句」が小野さんの創案なのかどうかetc)が延々と書かれているから。どうしても書きたいなら、脚註にすればいい。引用文献を本文中に( )で示してくれるほうがよほど読み進めやすい(発行年・出版社etcを脚註にする)。

ながながしい引用をいったん受け止める(かいつまむetc)手順がないのも、読みにくさの一因。

文字がどかっと大きなひとかたまりなのも、読者を遠ざける。

でも、一番の間違いは、「第二芸術論」をこのようなかたち(もっぱら内容の吟味)で論じてしまったこと。ジミ・ヘンドリクスの例示等、桑原に向けてみて何の意味がある?といった話題も、何が言いたいのかわからなくしている一因。

これでは、当の小野さんも反論しようがないだろう。



とはいえ、興味深い点もある。ロラン・バルト「記号の国」を、今回の「想望」という脈絡でとらえたところ。

(余談ですが、私が読んだ『表徴の帝国』(宗左近訳)とは、訳文がずいぶんちがって読みやすくなっているようですね)

(若者あるいは現代人にとっての)歳時記とバルトにとっての日本という虚構を結びつけたのは、意表とは言えないが、意味のあることだろう。

ただし、福田さんのこの書き方を、何も知らない人が読むと、「記号の国」が俳句を論じた本のように思ってしまいませんか。

「記号の国」は、1960年代後半、日本滞在記という体の本。現実社会を前にしても、バルトは、テクストを読み解くような態度。「日本」は当然、虚構、物語としての日本になっちまいます。

俳句は、「日本」の一部として、取り上げられている。バルトが把握した「俳句」はバルトの日本分析にぴったりだったらしく、力が入った内容にはなっていますが。

福田さんのこの記事で「記号の国」を扱うなら、むしろバルトの俳句観には触れず、バルトのテクスト解釈的な「日本」と歳時記を並べて論じたほうがクリアだったかもしれない。そのままアナロジーになるかどうかは別にして。

日本がバルトにとって「かなた」であるわけですが、そこには「西欧」というバルトの住む場所と歴史から見て、という背景がある。歳時記と私たちに関して、そうした遠近法があるのかどうか。そのへんはどうなんでしょうね。




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by tenki00 | 2011-02-10 08:34 | haiku
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