「知的」はややこしい

「知的」という語は、とても微妙で、むずかしいものになっている。

山崎正和という人の次のような意見が読売新聞に載り…

ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。
http://alfalfalfa.com/archives/1935460.html

…例によって、インターネット世間が騒がしくなった。自分たちが貶められた気がするだろうから、反発する意見が多いのは当たり前。

で、それとは別に、「訓練」という言い方がなかなか曖昧で、「知的訓練を受けている人」と「いない人」という区別が明瞭ではない点がおもしろい。

昔なら、高等教育を受けている、いないで、この「知的訓練」の有無が測れたのだろうが、今は、そうでもない。

「訓練」なんて言うからややこしいのであって、単に「知的」でいいんじゃないの?と思うが、そうすると、また別のややこしさが生じる。

例えば、上記の山崎さんという人のものごとの捉え方が「知的」かと言うと、ちょっとそうは言えない(A→B→C、何がどうなれば、こうなるという筋道のオソマツさ)。

それよりも前に、読売新聞を「知的(な存在)」と考えている人が、いま、どのくらいいるだろう?(あんまり、いない)。新聞全般も同様。

「知的」という語は、なかなかややこしいものなのだなあ、と。


【余談】
仮に知的な人が存在するとして、その人は「知的」という語と無縁に暮らしている。譬えて言えば、知的な人は「知的生活のすすめ」という本も三笠書房「知的生き方文庫」も読まない。




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by tenki00 | 2011-01-12 22:40 | etc
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