季語が動きますねえ(したり顔)

「季語が動く」と言う人がいる。ある句について、他の季語でも成り立ってしまう、だからダメ、ということ。

言っていること、言いたいことはわかる。

句会なんかで、この手の感想というか指摘が、本人の参考になるときもあるだろう。

でもね、あまり気にとめない。

理由? ひとつには、季語が動かない句は、きわめて稀だ。だから動いていい、と言いたいわけではない。「季語が動く」と指摘する人が「動かない」と思っている句のなかにも、動かそうと思えば、いくらでも動く句がある。動くからダメと言い出したらキリがなくなる。

きっと、どんどん動いていっちゃう句がダメで、比較的動かない句はオーケーといった捉え方なのだろうが、指針としてはずいぶん頼りない。

もうひとつは、このほうが理由として大きいのだが、動くも動かないも、作者が、そう詠んだのだから、それをそれとして読むべきなんじゃないの、というもの。

例えば「この取り合わせはないよなあ」とか「もっと良い季語がありそうだ」とか思う句はあるが、「季語が動く」と言ったりはしないようにしている(俳句的クリシェのパロディ、冗談で言うことはあっても)。「だって、その人が〔それ〕というんだから〔それ〕なんだろう」と。

ま、この「季語が動く」という決まり文句には背景がある。12音つくって、最後にポンと季語を載っける、いわゆる「十ニ音技法」(なつかしいですね)。その手の作句手順があまりにも多いので、そこのところを「季語が動く」と諭すのでしょう。でも、あまり言い過ぎるのも、ね。とりあえず、そう言っときゃあいい、てな慣習も退屈なわけで。
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by tenki00 | 2010-01-20 19:00 | haiku
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